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美人計
·
Published 9/27/2026
昼間の范青藍は、口を開けば皮肉と嫌味ばかりの、底意地の悪い男だ。
人の揚げ足を取っては逃げ道を塞ぎ、江憐寒が困り果てて耳を赤くするのを眺めては、愉しげに目を細める。截雲閣の誰もが知っている。閣主の范青藍は、あの涼しい顔で人をからかうのが何より好きな男だと。そして、その標的が決まって江憐寒であることも。
「おや、江公子。今日も随分とお疲れのご様子で」
朝餉の席で、范青藍はそう言って、粥を掬う匙を止めた。人前ではいつもの慇懃な呼び方。いつもの涼しい微笑み。けれどその目は、江憐寒の襟元をちらりと見て、それから意味ありげに細められた。
「昨夜はよく眠れましたか」
「……っ、お、おかげさまで」
「それは何より。薬草を干していらしたそうですね。日に焼けて、首が赤い」
指が、卓の上を滑ってくる。人前で、他の者たちの目がある前で、范青藍の指先が江憐寒の首筋をそっと撫でた。それだけで、江憐寒の身体はびくりと強張った。襟の下に散った痕を、今朝あれほど念入りに隠したはずなのに。范青藍の指がなぞったのは、ちょうどその痕の上だった。
「……っ、せ、青藍殿、人前で」
「何のことでしょう。虫刺されが痒そうだったもので」
范青藍は涼しい顔で匙を戻し、粥を口に運んだ。向かいの席で、驚鯢が羽扇の陰で肩を震わせている。奔電は無言で椀を持ち上げ、夾翼は穏やかに微笑みながら、そっと江憐寒の茶碗を引き寄せて茶を注いでくれた。截雲閣の母は、何も見ていないふりをするのが上手い。
江憐寒は、粥を匙で掻き回しながら、また溜息をついた。
◇
昼下がり。医務室の軒先で薬研を挽いていた江憐寒の頭上を、ふわりと涼しい風が撫でた。
見上げると、驚鯢が鉄骨の羽扇をゆったりと揺らしながら、にこにこと江憐寒を見下ろしていた。
「おや、小江。浮かない顔だねぇ」
「……驚鯢殿」
「さっきから、薬研を三回挽くたびに一回は溜息をついてる。滅魂の爺さまに聞かれたら、薬が湿気るって怒鳴られるよ」
驚鯢は江憐寒の隣にすとんと腰を下ろし、羽扇で江憐寒に風を送った。截雲閣でいちばん話の通じる、気さくな男だ。八刃の誰と誰が揉めていても、いつの間にかこの男がひらりと間に入って、冗談ひとつで場を丸く収めてしまう。江憐寒も、その軽口に何度救われたか分からない。
「何か悩み事かい? 私でよければ聞くけど」
「……いや。何でもない」
「ふうん」
驚鯢は羽扇の陰で目を細めた。その視線が、江憐寒の襟元へすっと落ちる。
「首に、ずいぶんと可愛らしい虫刺されがあるねぇ」
江憐寒は慌てて襟を掻き合わせた。今朝あれほど念入りに隠したはずなのに、薬研を挽くうちにずれていたらしい。
「さては、閣主のことかな」
「ち、違う」
「違わないねぇ。耳が真っ赤だよ」
江憐寒は、嘘がつけない。驚鯢はそれを誰よりもよく知っていて、にこにこと穏やかな顔のまま、じわじわと外堀を埋めてきた。喧嘩でもしたのかと訊かれて首を振れば、では閣主が何か意地悪をしたのかと訊かれる。それにも首を振れば、では夜のことかと訊かれる。最後の問いにだけ、江憐寒は首を振れなかった。
「なるほど、夜のことか」
「……っ」
「閣主が、何か無体な真似でも?」
「そ、そうではない! 青藍殿は、いつも、その……優しい」
「優しい。それは結構なことだ。じゃあ、何が不満なんだい」
「不満では、ない。ただ……」
薬研の柄を握り締めたまま、江憐寒は長いこと黙り込んだ。驚鯢は急かさなかった。羽扇でゆるゆると風を送りながら、江憐寒が口を開くのをただ待っている。その穏やかさに押されるように、江憐寒は蚊の鳴くような声で白状した。
「……青藍殿は、いつも、途中でやめてしまう」
「途中で」
「我が、その……二度、目、になると。それで、おしまいに、なる」
「ははあ」
「……青藍殿は、一度も……」
その先は、どうしても言葉にならなかった。江憐寒は、薬研の上に突っ伏すように顔を伏せた。
しばらく、何の音もしなかった。やがて頭の上で、驚鯢が羽扇の陰で盛大に吹き出す気配がした。
「ふ、ふふ……っ、ああ、いや、ごめんごめん。笑うところじゃなかったね」
「……笑っているではないか」
「笑ってないよ。これは、由々しき事態だ」
驚鯢は、どう見ても笑いを噛み殺している顔で、しかつめらしく頷いてみせた。それからほんの一瞬だけ、何かを見透かしたような目で遠くを見た。閣主のことなら、たぶん江憐寒よりもずっとよく分かっている、という顔だった。だが驚鯢は、そのことを口には出さなかった。
「つまり小江は、閣主を満足させてやりたいわけだ」
「……そうだ」
「なら、話は簡単だよ。小江が二度目を迎える前に、先に閣主を満足させてしまえばいい」
江憐寒は、がばりと顔を上げた。
「……どうやって」
「それを、これから教えてあげようじゃないか」
驚鯢は羽扇をぱちりと閉じて、にんまりと笑った。
「三十六計にもあるだろう、美人計というやつが。閣主は大した策士だけど、策を仕掛けられる側に回ると、案外脆いものさ」
そこから始まった驚鯢の手ほどきは、江憐寒にとって、どれもこれも無理難題ばかりだった。
まず、閣主に呼ばれるのを待たないこと。自分から寝所を訪ねて、自分から口づけること。閣主の帯は閣主に解かせるのではなく、自分の手で解いてやること。耳元で名を呼ぶこと。触れられるのを待つのではなく、自分から触れること。
「……口づけは、どのくらい、長く」
「おや、熱心だねぇ。そうだね、閣主が息継ぎをしたくなるくらいまで、かな」
「……帯は、どちらの手で」
「どちらでもいいけど、ゆっくりね。急いで解くと色気がない」
「……名は、どのくらいの声で」
「息を多めに、囁くくらいがいいねぇ。小江は声がいいから、それだけで閣主は参ってしまうよ」
江憐寒は一つ訊いては頷き、また一つ訊いては頷いた。難しい処方の配合を確かめる時と同じ真剣さだった。驚鯢は途中から、羽扇で顔を隠していないと笑い声が漏れてしまうらしく、ずっと扇の陰で肩を震わせていた。
「男っていうのはね、好いた相手から求められると、それだけで箍が外れてしまう生き物なんだよ。特に閣主みたいに、普段から澄ました顔をしている男ほどね」
「……そ、そういうもの、なのか」
「そういうものさ。それから、とっておきの手管がひとつ」
驚鯢は羽扇を開き直して、江憐寒の耳元に顔を寄せ、扇の陰で何事かを囁いた。それが何を意味するのか、江憐寒には一瞬分からなかった。
分かった瞬間、江憐寒の手から薬研の柄がごとりと落ちた。首筋から耳の先まで、見る間に真っ赤に染まっていく。
「そ、そ、そのような、ことを……」
「するんだよ。閣主を満足させたいんだろう?」
江憐寒は真っ赤な顔のまま、長いこと固まっていた。やがて震える手で懐から処方の書き損じを一枚取り出し、その裏に、驚鯢の言ったことを一つずつ書き留め始めた。医術の心得でも写すような、大真面目な筆つきだった。驚鯢が、羽扇の陰でまた肩を震わせた。
「……驚鯢。お前、何を教えてる」
医務室の角を曲がってきた奔電が、書き留められていく文字を覗き込んで、みるみる顔を引き攣らせた。
「こんなことが閣主に知れたら、お前、殺されるぞ」
「閣主は私を殺さないよ。せいぜい、一月分の帳簿付けを押しつけられるくらいさ」
「驚鯢?」
今度は、穏やかな、それでいてひどく冷えた声がした。いつの間にか、夾翼が驚鯢の背後に立っていた。
「小江に、何を吹き込んでいるのかな」
「あいたたた、夾翼、耳は、耳は勘弁しておくれよ」
耳を引っ張られて連れていかれながら、驚鯢は振り返って羽扇を振った。
「小江、健闘を祈るよ!」
その場に残った奔電は、しばらく何か言いたげに江憐寒を見下ろしていた。
「……おい。悪いことは言わねえ、閣主相手にそれはやめとけ。あの人は、たぶんお前が思ってるよりずっと……」
そこまで言って、奔電は口を噤み、がしがしと頭を掻いた。
「……いや、何でもねえ。好きにしろ」
奔電が去っていくと、一人残された江憐寒は、書き付けの紙をじっと見下ろした。自分から寝所を訪ねること。自分から口づけること。帯は自分の手で。耳元で名を。そして最後に書いた、あのとっておき。
顔から火が出そうだった。それでも江憐寒は、紙を丁寧に折り畳んで、懐の奥へしまい込んだ。青藍殿に、満足してほしい。そのためなら、何だってやってみせるつもりだった。
その日の夕刻、江憐寒は自室で一人、枕を相手に「……青藍殿」と囁く練習をした。息を多めに、と三度繰り返したところで、窓辺に漂っていた冥潜が不思議そうにきゅう、と鳴き、江憐寒は枕に顔を埋めたまま、しばらく動けなくなった。
◇
思えば、その日は朝から妙だった。
江憐寒は范青藍と目が合うたびに慌てて逸らし、夕餉の席では驚鯢が羽扇の陰でやけに楽しげに笑っていて、奔電は范青藍の顔を見るなり、哀れな者でも見るような目をして黙って首を振った。夾翼に至っては、驚鯢の耳を引っ張りながら、范青藍に向かって申し訳なさそうに頭を下げてきた。
何かが起きている、とは思った。それが自分の身に降りかかることだとは、さすがの范青藍も思っていなかった。
その夜、江憐寒の方から部屋を訪ねてきた時、范青藍はまず、何かあったのだと思った。
普段の江憐寒は、呼ばれるまで来ない。来ても戸口で遠慮がちに立ち尽くし、范青藍が手招きするまでは部屋の奥へ入ってこようとしない。それが今夜は、湯を使ったばかりの洗い髪のまま、寝衣一枚で、決戦にでも臨むような顔をして、まっすぐ范青藍の前まで歩いてきた。
「おや、憐寒。今夜はずいぶんと早いお越しで――」
言い終わる前に、唇に何かがぶつかってきた。
江憐寒の唇だった。勢い余って歯が当たり、范青藍は思わず目を瞬かせた。江憐寒の方から口づけてきたことなど、数えるほどしかない。それもたいていは、范青藍が散々追い詰めて、言わせて、ようやく引き出した一度だ。
「……どういう風の吹き回しです?」
「……だ、黙っていろ」
北の訛りの混じった声でそう言うと、江憐寒は范青藍の帯の結び目に指を掛けた。震える指先が、ぎこちなく結び目を解いていく。一度では解けず、二度目でようやく緩んだ帯を、江憐寒は大真面目な顔で范青藍の腰から抜き取った。
范青藍は、しばらく黙ってされるがままになっていた。
驚いていたのは確かだ。だがそれ以上に、目の前の光景から目が離せなかった。あの慎み深い江憐寒が、自分の帯を解いている。耳の先まで真っ赤にして、唇をきゅっと引き結んで、今にも逃げ出しそうな顔をしながら、それでも手を止めずに。
誰かの入れ知恵だ、と頭の冷えた部分が告げていた。この男が一人でこんな真似を思いつくはずがない。問い質すべきだとは分かっていたが、江憐寒の唇が首筋に触れた瞬間、その冷えた部分はきれいに溶けて消えた。
江憐寒の唇は、ひどく慎重だった。首筋の脈の打つところに押し当てては離れ、また少しずらして押し当てる。どうすればいいのか分からないまま、それでも懸命に、范青藍がいつも江憐寒にしていることを見よう見まねでなぞっているのだと分かった。その不器用さが、どんな手練の手管よりも范青藍の喉を詰まらせた。
「……青藍殿」
耳元で、名を呼ばれる。吐息と一緒に、掠れた声で。
范青藍は、寝台の敷布を握り締めた。
「……今宵は、ずいぶんと積極的でいらっしゃる」
皮肉のつもりの声が、情けないほど上擦っていた。江憐寒は答えず、范青藍の肩をそっと押した。いつもの江憐寒の力なら、范青藍はびくともしない。だが今夜は、面白がって押されてやった。
仰向けに倒れた范青藍の上に、江憐寒がおずおずと覆いかぶさってくる。見下ろしてくる角度も、わずかに顎を引いた目つきも、どう見ても江憐寒の自前ではない。どこかの誰かが面白がって仕込んだ手管の匂いが、ぷんぷんとした。
灯りの下で見上げる江憐寒の顔は、今にも泣き出しそうなほど真剣だった。
その顔のまま、江憐寒は范青藍の胸に、腹に、ぎこちない口づけを落としていく。一つ落とすたびに、自分の方がびくりと震えている。范青藍は奥歯を噛んだ。まずい。これは、非常にまずい。こんなことを続けられたら、自分がどうなるか分からない。
三十六計の第三十一、美人計。策を仕掛けられる側に回るのはいつ以来だろう、と、范青藍は遠くなりかけた頭の片隅で思った。しかもこの策は、恐ろしいほどよく効いている。
主導権を取り返そうと江憐寒の腰に手を伸ばしかけると、「う、動くな」と真っ赤な顔で手首を押さえつけられた。これも驚鯢の教えの一つなのだろう。その手の震えを感じながら、范青藍は大人しく敷布の上に手を戻した。
江憐寒の手が、解けた衣の合わせ目を割って、さらに下へと滑った。
身を屈めた江憐寒の洗い髪が、范青藍の腹の上をさらりと流れていく。その顔が、衣の奥へと近づいていく。何をしようとしているのかを悟った瞬間、范青藍は跳ね起きていた。
「――何のつもりですか」
江憐寒の肩を掴んで引き剥がす。自分でも驚くほど、冷えた声が出た。
「貴方に、そのようなことは求めておりません」
江憐寒が、目を見開いたまま固まった。
范青藍は乱れた衣の前を掻き合わせ、眉を顰めて、いつもの倍は嫌味ったらしい口調で畳みかけた。
「どこでそのような芸を仕込まれてきたのやら。妓楼の真似事でもなさるおつもりで? お生憎様ですが、私はそのようなものを貴方に望んだ覚えは、ただの一度もございません」
言ってから、しまったと思った。言い過ぎた。
だが、言わずにはいられなかった。この男にだけは、あんな真似をさせたくなかった。身を屈めて自分に奉仕しようとする江憐寒の姿を見た瞬間、胸の奥で何かが冷たく軋んだのだ。この世には、神器にそういう真似を強いて平然としている仙師が掃いて捨てるほどいる。自分がその連中と同じ場所に立つことだけは、たとえ相手が望んだとしても、どうしても耐えられなかった。
江憐寒は、何も言わなかった。
肩を掴まれたまま、范青藍の顔をじっと見つめている。その目の縁に、じわりと何かが溜まっていくのが見えた。溜まって、溢れて、ぽたりと落ちた。一粒落ちると、あとは堰を切ったように、ぽたぽたと声もなく頬を伝い落ちていく。
范青藍は、ぎょっとした。
泣いている。あの江憐寒が。追い詰めても、意地悪をしても、羞恥で目を潤ませることはあっても、こんなふうに声もなく涙を零したことなど一度もなかった男が。
「……憐寒?」
声が、自分でも間抜けなほど裏返った。范青藍は慌てて江憐寒の頬に手を伸ばし、親指で涙を拭った。拭っても拭っても、次から次へと溢れてくる。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい。何も泣くことは――いえ、泣かせたのは私ですね。私ですが、一体どうしたっていうんですか」
江憐寒は、ふるふると首を振るばかりで答えない。范青藍はその身体を引き寄せ、膝の上に抱き込んだ。濡れた頬に、目元に、震える瞼に、次々と口づけを落としていく。塩辛い味がした。
「言い過ぎました。申し訳ございません。ですから泣き止んでください。……貴方に泣かれると、どうしていいのか分からなくなる」
背を撫で、髪を梳き、耳元で何度も名を呼ぶ。天下十絶に名を連ねる男が、腕の中の一人を泣き止ませることもできずに、みっともなくおろおろしている。翻羽あたりが見たら、腹を抱えて笑い転げるに違いなかった。范青藍は上掛けを引き寄せて江憐寒の肩に掛け、冷えかけた背中を掌で何度もさすった。こんな時に限って、あれほど回る舌が何ひとつ役に立たない。
ようやく江憐寒の肩の震えが少し収まった頃、胸元で、くぐもった声がした。
「……我は、何か、間違えたのか」
「間違え、とは」
「……気持ちよく、なかったのか」
范青藍は、言葉に詰まった。
「……それとも、青藍殿は、我に触れられるのが、嫌なのか」
「嫌なわけがないでしょう」
即答だった。江憐寒が、涙に濡れた目でおずおずと顔を上げる。
「……でも、いつも、途中で止める」
「……」
「我ばかりが、その……満たされて。青藍殿は、一度も……最後まで……」
そこまで言って、江憐寒はまた范青藍の胸に顔を埋めた。
「……青藍殿は、満足していないのだろう。我では、足りないのだろう。だから、せめて青藍殿にも、と思って……」
「……それで?」
「……驚鯢殿に、相談した」
范青藍は、目を閉じた。
驚鯢。よりにもよって、驚鯢。截雲閣でいちばん口が上手く、いちばん色事に通じていて、いちばんの面白がり屋。
「……驚鯢殿が、二度目の前に、先に青藍殿を満足させればいいと。それで、教わった通りに……」
范青藍は、長い、長い溜息をついた。胸の底から魂ごと吐き出すような溜息だった。
「……私の知らないところで、他の男から閨の手管を教わってきたと」
「……っ、す、すまない」
「驚鯢には、後でたっぷりと礼をしなければなりませんね」
にっこりと笑って言うと、江憐寒がびくりと肩を竦めた。范青藍は溜息をもう一つついて、江憐寒の濡れた頬を両手で包み込んだ。
「いいですか、憐寒。一度しか申し上げませんので、よくお聞きなさい」
江憐寒が、こくりと頷く。
「まず。貴方に触れられるのが嫌なはずがないでしょう。逆です。貴方に触れられたら、私の方が我慢できなくなる。我慢できなくなったら、貴方の身体がもたない。だから止めさせたのです」
「……我慢、していたのか」
「していましたとも。毎晩、それはもう必死に」
江憐寒の目が、まん丸になった。
「それから。……私は貴方に、あのような真似をさせるつもりは毛頭ございません」
范青藍の声が、少しだけ低くなった。
「誰かの欲を片付けるための道具のように貴方を扱うなど、死んでも御免です。たとえ、その誰かが私自身であっても」
江憐寒は何か言おうとして口を開き、そのまま閉じた。
「最後に。満足していない、と仰いましたね」
范青藍は、ふっと笑った。皮肉でも嫌味でもない、ひどく柔らかな笑い方だった。
「他でもない貴方が、私にだけ身体も心も許して、委ねて、私の与えるもので乱れて、溺れて、何度も私の名を呼ぶ。……それを見られるだけで、私は果てるよりもずっと満たされているのですよ。私が最後まで行き着くかどうかなど、正直に申し上げて、どうでもよいのです」
江憐寒の目から、また涙が一粒零れた。今度は、さっきとは違う涙だった。
「分かりましたか。分かったなら、今夜はもう――」
「……それでも」
江憐寒が、范青藍の襟をぎゅっと掴んだ。
「……我ばかりは、嫌だ」
「憐寒」
「我はいつも、青藍殿からもらってばかりだ。命も、居場所も、夜も。……何ひとつ、返せていない」
范青藍は、息を呑んだ。
恩を返せと押しつけてこの男を生かしたのは、他ならぬ自分だった。その言葉を、この男はまだ律儀に胸に抱えている。
「……恩など、とうに返していただいております」
「それでも。青藍殿にも、同じように……感じて、ほしい」
范青藍は、言葉を失った。
「……今夜は、二度で、止めないでくれ」
涙に濡れた目が、まっすぐに范青藍を見上げていた。
「青藍殿が、終わるまで。……最後まで」
「……必要ないと、申し上げたばかりですが」
「我が、そうしてほしいのだ」
北の訛りが、はっきりと出ていた。本気の時の声だった。
「……それに、青藍殿は、止める時、いつも奥歯を噛んでいる」
范青藍は、ぎくりとした。
「我は、見ていた。……満足しているなら、あのような顔はせぬ」
嘘のつけない男は、他人の嘘を見抜く目も、存外に鋭かった。
范青藍の中で、何かがごりごりと音を立てて削れていった。必死に積み上げてきた我慢も、毎晩言い聞かせてきた理屈も、この男の身体を気遣う理性も。
「……後悔しますよ」
「しない」
「明日、立てなくなっても知りませんよ」
「……構わぬ」
范青藍は目を閉じて、一度だけ深く息を吸った。吐き出した時には、もう敬語はどこにも残っていなかった。
「……言ったのは、お前だからな」
押し倒したのは、今度は范青藍の方だった。
それでも最初は、いつものように丁寧だった。急がず、焦らず、壊れ物を扱うように。涙の跡の残る頬に口づけ、震える瞼に口づけ、しょっぱさの残る唇に、ゆっくりと深く口づける。
解けかけていた江憐寒の寝衣を肩から滑らせると、灯りの下に、昨夜の痕がまだ薄く残る肌が晒された。その一つ一つを、范青藍は唇で丁寧になぞり直していった。
「……と、灯りを」
「消さない」
范青藍は、江憐寒の手首を掴んで寝台に縫い止めた。
「今夜は、全部見せてもらう。……お前が言い出したことだ」
江憐寒は顔を背けて唇を噛んだが、掴まれた手首を振り払おうとはしなかった。
「……ああ、そうだ。せっかく驚鯢に教わってきたんだ。一つくらいは、試させてやる」
范青藍は掴んでいた手首を離して、江憐寒の手を自分の頬へ導いた。
「さっきの続きだ。お前から口づけてみろ。……息継ぎをしたくなるくらいまで、だったか?」
どうしてそれを、という顔で江憐寒が目を見開いた。聞いていたわけではない。驚鯢の教えそうなことくらい、手に取るように分かるだけだ。
江憐寒は真っ赤になって唇をわななかせ、それから意を決したように范青藍の首に腕を回して、唇を重ねてきた。ぎこちなく、長く、息が続かなくなって自分の方が先に音を上げるまで。唇を離した江憐寒が肩で息をしながら「……ど、どうだ」と訊いてくるのを見て、范青藍は、教えを仕込んだ驚鯢に本気で礼の一つも言いたくなった。
急がないのは、今夜も同じだった。
ただ、今夜の范青藍は、どこで止めるかを数えていなかった。耳の裏に、首筋の窪みに、鎖骨の上に、脇腹に、膝の内側に。江憐寒自身も知らなかった場所を一つずつ探り当てていくたびに、江憐寒の喉から、驚いたような声が零れた。何度も肌を重ねてきたはずなのに、まだこんなところがあったのかと、范青藍の方が驚いていた。
江憐寒が二度目の高みから降りてきて、范青藍の手がいつもの癖で止まりかけた時、江憐寒の指が、范青藍の手首をきゅっと掴んだ。
「……止めるな、と、言った」
息も絶え絶えのくせに、その目だけは頑なだった。范青藍は喉の奥で低く笑った。
「ああ。分かってる」
そこから先、范青藍はもう手を止めなかった。
三度目で、江憐寒は范青藍の背に爪を立てた。四度目で、殺しきれなくなった声が北の訛りのまま部屋に零れ落ちた。五度目か六度目か、もう范青藍にも数えている余裕はなかったが、ある時から江憐寒は、泣きながら范青藍の名を呼ぶことしかできなくなった。青藍殿、青藍殿と、何度も、何度も。こんな時まで殿をつけるのをやめないところが、どうしようもなく江憐寒らしかった。
「……っ、せい、らん、どの……もう……」
「止めるなと言ったのは、お前だろう」
「……っ、う、嘘つき……っ、青藍殿の、嘘つき……! いつもは、あんなに、優しいのに……」
「いつもはな。今夜は、お前が要らないと言ったんだ」
訛り混じりの抗議は、途中から意味のある言葉にならなくなった。耳元で名を囁くたびに、腕の中の身体がびくりと跳ねる。首筋に、鎖骨に、胸元に、昨夜の痕の上から新しい痕を重ねていく。触れるたびに江憐寒は震え、震えながら縋りついてきて、その指先が范青藍の背中にいくつもの赤い筋を残していった。明日の朝この背を見た者がいれば、范青藍の方がよほど手酷く抱かれたように見えるだろう。
燭台の蝋燭が一本燃え尽き、二本目もずいぶんと短くなった。
江憐寒が何度高みへ攫われても、范青藍の方はまだ少しも終わる気配がなかった。
「……な、なぜ……青藍殿は、まだ……」
「言っただろう。お前が思ってるより、ずっと我慢してたんだ」
途切れ途切れに問う江憐寒の額に、范青藍は自分の額を押しつけて笑った。
「毎晩お前が二度で音を上げるから、俺は一度もまともに付き合ってもらえなかった。……今夜は、最後まで付き合ってもらうぞ」
「……っ、い、意地が、悪い……」
「今さらだな。それから、驚鯢に教わったことは全部忘れろ。お前に何かを教えていいのは、俺だけだ」
江憐寒の目から、また涙が零れた。苦しいのか、気持ちがいいのか、本人にももう分からないのだろう。それでも、范青藍の首に回された腕は決して解かれなかった。
それが何よりも、范青藍の理性を焼いた。逃げていいと言われても逃げず、止めていいと言われても止めさせない。この身体も心も、今夜は一つ残らず差し出すのだと、江憐寒自身が言葉ではなく腕の力で告げている。果てることなどどうでもいいと言ったのは本心だった。けれど、こうして江憐寒の方から最後まで求められてしまえば、話はまるで別だった。
「……憐寒」
名を呼ぶと、焦点の合わない瞳がのろのろと范青藍を捉えた。涙と汗に濡れた顔で、それでも江憐寒は、ほんの少しだけ笑った。
「……せいらんどの、が……きもち、いいなら……いい」
范青藍は、今度こそ何も言えなくなった。言葉の代わりに、深く口づけた。この男はいつもそうだ。自分がどれほど追い詰められていても、最後には必ず人のことばかり考えている。その健気さに、范青藍はいつも、どうしようもなく負けるのだった。
范青藍がようやく長い息をついたのは、窓の外がうっすらと白み始めた頃だった。
腕の中の江憐寒は、とうに意識を手放しかけていた。汗に濡れた髪を額に張りつかせ、涙の跡の残る頬を上気させて、それでも范青藍の袖だけはしっかりと握り締めている。范青藍は、その額にそっと唇を落とした。
「……馬鹿な人だ」
呟いた声は、自分でも驚くほど甘かった。腕の中で、江憐寒の唇がかすかに動いた。
「……まんぞく、したか……」
「ああ。したとも」
范青藍は、汗に濡れた前髪をそっと掻き上げてやった。
「……だから、二度とこんな無茶はさせないぞ」
聞こえていたのかいないのか、江憐寒は范青藍の袖を握ったまま、ふにゃりと笑って眠りに落ちた。
湯で絞った布で江憐寒の身体を丁寧に拭い、新しい寝衣を着せかけて、上掛けを肩まで引き上げてやる。いつもの夜と、同じように。ただ一つ違うのは、今夜の范青藍が、この上なく満ち足りた顔をしていることだった。
◇
翌朝、江憐寒は寝台から起き上がれなかった。
起き上がろうとして、腰から下にまるで力が入らないことに気づいた。もう一度試してみても、同じだった。腕をついて身を起こそうとすれば肘が震え、声を出そうとすれば喉が掠れて、ひどく情けない音しか出ない。昨夜のことを思い出しかけて、江憐寒は上掛けの中で身体を丸めた。途中から先は、ほとんど覚えていない。覚えていないのに、身体の方が全部覚えていて、思い出そうとするだけで肌が熱くなる。
「……っ、せ……」
「おはようございます、憐寒」
范青藍が、湯気の立つ椀を手に寝台の傍らへ腰を下ろした。昨夜のことなど何ひとつなかったような、いつも通りの涼しい顔だ。いや、いつもより数段、上機嫌な顔だった。
「起き上がれないでしょう。ですから申し上げたのです。明日立てなくなっても知りませんよ、と」
「……っ」
「粥です。はい、口をお開けなさい」
匙で粥をすくって息を吹きかけ、口元へ運んでくる。いつかとは逆だった。江憐寒は真っ赤な顔で、それでも大人しく口を開けるしかなかった。范青藍は満足げに目を細めて、甲斐甲斐しく一口ずつ粥を運び、零れれば指で拭い、湯殿へ行く時には当然のように江憐寒を抱き上げて運んだ。途中の廊下で翻羽と行き合い、翻羽が「え、江兄どうしたの、怪我!?」と叫びかけたところで、後ろから音もなく現れた追風に口を塞がれて引きずられていった。
湯殿で、江憐寒は范青藍の背中を見た。白い背に、赤い筋がいくつも走っていた。どう見ても、爪の痕だった。
「……っ、そ、それは」
「ああ、これですか」
范青藍は、振り返りもせずに言った。
「昨夜、どなたかに随分と可愛がっていただきまして」
江憐寒は、湯の中に沈んでしまいたかった。
湯殿を出たところで、縁側で昼間から酒を舐めていた染六が、范青藍の襟元から覗く爪痕を目敏く見つけて、腹を抱えて笑い出した。
「おいおい、画皮蟒。とうとう皮を剥がされたか」
「羨ましいでしょう」
范青藍は涼しい顔でそう返して、江憐寒を抱えたまま悠々と通り過ぎた。江憐寒は范青藍の胸に顔を埋めたまま、二度と上げられなかった。
部屋に戻ると、范青藍は江憐寒の脱いだ衣の懐から、折り畳まれた一枚の紙を摘まみ上げた。処方の書き損じの裏に、見覚えのある几帳面な字で、驚鯢の教えが一つずつ書き連ねてある。
「……っ、そ、それは!」
「おや。医術の心得にしては、ずいぶんと艶っぽい処方ですね」
范青藍は紙の上に目を走らせ、最後の一行のところで、ほんの一瞬だけ眉を跳ね上げた。それから何事もなかったように、その一行だけを細く破り取って、火鉢の炭の上へ落とした。
「この一行は、貴方には必要ございません。残りは没収です」
「か、返せ! 何に使うのだ」
「さあ。何に使いましょうね」
にこやかに懐へしまい込まれて、江憐寒は今度こそ、上掛けの中から出てこられなくなった。
昼前には、医務室から滅魂が怒鳴り込んできた。
「この馬鹿閣主が! 霊脈の弱い者に何をしとるか! 儂がどれだけ手間をかけてこの小僧の身体を繕っとると思っとる!」
「面目次第もございません」
范青藍は殊勝に頭を下げたが、その口元が笑っているのを、江憐寒は見逃さなかった。滅魂もそれに気づいたのか、ますます顔を赤くして怒鳴り散らし、江憐寒の手首で脈を取って「……ふん、まあ霊脈に障りはない」と唸ると、強壮の薬を押しつけて、ぶつぶつ言いながら帰っていった。
滅魂と入れ違いに、夾翼が柔らかな座布団を二枚抱えてやってきた。「閣主。小江が座る時は、これを腰の下に」と、にこやかに、けれど有無を言わせぬ調子で范青藍に押しつけ、「それから、驚鯢には私からもきつく言っておきますので」と一礼して去っていった。截雲閣の母と呼ばれる男の細やかな気遣いが、今の江憐寒にはいちばん恥ずかしかった。
その後から、羽扇を揺らしながら驚鯢が顔を出した。
「やあ、小江。……おや、これはこれは。ずいぶんとお疲れのようだねぇ」
江憐寒は、上掛けを頭まで引っ被った。上掛けの向こうから、驚鯢の忍び笑いが聞こえてくる。
「驚鯢」
范青藍の、柔らかな声がした。
「昨日は、憐寒に色々と教えてくださったそうで」
「いやあ、ちょっと相談に乗っただけだよ、閣主」
「そうですか。では、礼は言いませんよ」
上掛けの隙間から覗くと、范青藍はにっこりと微笑んでいた。驚鯢は一瞬きょとんとして、それから羽扇の陰で吹き出した。
「閣主。それ、礼を言ってるのと同じだよ」
「さあ、何のことでしょう。……ああ、それから、夾翼が帳簿のことで貴方を探しておりましたよ。一月分ほど溜まっているそうで。奔電と二人で、ゆっくり片付けてください」
「……やっぱり、そうなるよねぇ」
廊下の向こうから、奔電の「なんで俺まで!」という悲鳴が聞こえた。驚鯢は肩を竦め、ひらひらと羽扇を振りながら出ていった。去り際、上掛けから覗く江憐寒の目と、驚鯢の目が合った。驚鯢は片目を瞑って、声を出さずに口だけを動かした。よかったね、と。
戸が閉まると、范青藍は寝台に腰を下ろして、上掛けの上から江憐寒の頭をぽんぽんと撫でた。
「憐寒」
「……何だ」
「今後、閨のことで悩んだら、驚鯢ではなく私に仰ってください」
上掛けの中で、江憐寒はこくりと頷いた。
「実地で、たっぷりとお教えしますので」
江憐寒は上掛けを跳ね上げて范青藍を睨みつけようとしたが、腰に力が入らず、そのまま寝台に沈んだ。范青藍の楽しげな笑い声が、上から降ってくる。その笑い声がひどく満ち足りて聞こえたので、江憐寒は睨むのをやめて、代わりに范青藍の袖をそっと掴んだ。昨夜、范青藍が言っていたことを、ぼんやりと思い返す。自分にだけ身体も心も許して、委ねて。それを見られるだけで満たされている、と。あれは、はぐらかしではなかったのだ。満足してもらえたのなら、立てないくらいどうということはない。そう思ってしまう自分も大概だと、江憐寒は上掛けの中で小さく溜息をついた。
夕刻、ようやく壁伝いに歩けるようになった江憐寒は、帳簿の山に埋もれている驚鯢と奔電のもとへ、茶を二つ淹れて運んでいった。自分のせいで一月分の帳簿付けを押しつけられたのだから、せめてもの詫びのつもりだった。
「……巻き込んで、すまなかった」
「いいよいいよ。閣主の機嫌が良くなったなら、帳簿の一月分くらい安いもんさ」
驚鯢は茶を受け取って、にこにこと笑った。奔電は無言で算盤を弾き続けている。江憐寒はしばらく迷ってから、驚鯢の耳元に顔を寄せて、蚊の鳴くような声で訊いた。
「……驚鯢殿。その……加減をしてもらうには、どうすれば」
驚鯢の目が、きらりと光った。
「おや。それはねぇ、小江――」
「やめろ!!」
奔電の悲鳴のような声が、帳簿部屋じゅうに響き渡った。
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This is a work of fiction, assisted by artificial intelligence. Any names or characters, businesses or places, events or incidents, are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, or actual events is purely coincidental.
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